志紀島啓先生が6月3日のポストでルソーの翻訳について触れていたので、そういえばルソーの翻訳HPがあったなあ、と改めて探してみた。・・・ありましたよ!「古典のつまみぐい」というサイトでした。
しかし、全体の意志が多くの異なる意志の中から生まれて、その考えが正しいものとなるためには、国民が正しい知識をもって審議するだけでなく、市 民たちの間であらかじめ互いの意志を通じておくことがないようにしなければなりません。もし一部の国民が党派を組んでそれを国家よりも優先するようなこと があれば、それぞれの党派の意志はその党員にとっては全体の意志となるとしても、国家にとっては単なる個別の意志でしかありません。そして、そのような場 合には、投票が行われたとしても投票者の数と同じだけの投票があったとは言えません。それは党派の数だけしか投票がなかったのと同じなのです。
http://www.geocities.co.jp/hgonzaemon/rousseau2.html
ここの翻訳はルソーの論文は朗読されるためのもので、同じ意味でも2度目には語を替えて書いている、という考え方でされているそうです。日本語としてこなれているし、語の細かい使い分けに拘泥しないという方針でいいのだとおもいます。
(哲学的な疑問については私にはよくわかりません)
(以下志紀島先生の記事全文)
ジャン・ジャック・ルソー『社会契約論』一般意志は誤り得るか
アクサンは全て省略。
a)人民がよく事情を知って討議するとき、市民が相互間になんらの連絡ももたないとしても、多くの小差があったところで、結果として常に一般意志を生じ、その決議は常に正しいものであろう。(井上幸治訳・中央公論社世界の名著ルソーp253)
b)人民が十分に情報をもって審議するとき、もし市民がお互いに意志を少しも伝え合わないなら(徒党をくむなどのことがなければ)、わずかの相違がたくさん集まって、つねに一般意志が結集し、その決議はつねによいものであるだろう。(桑原武夫・前川貞次郎訳・岩波文庫p47)
c)人民が十分な情報をもって議論を尽くし、たがいに前もって根回ししていなければ、わずかな意見の違いが多く集まって、そこに一般意志が生まれるのであり、その決議はつねに善いものであるだろう。(中山元訳・光文社文庫p65)
東浩紀も注意を促している箇所であるが、読めば読むほど奇怪な文章だ。一切のcommunication無しで、delibererは可能なのだろうか? どちらかの語の意味を考え直す必要がある。また人民と市民の差異をルソーはどこまで厳密に考えているのだろうか。差異はルソーにとってよいものなのか、悪いものなのか。訳文を読む限り見解は一致していない。
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