2011年4月2日土曜日

原発事故 政府対応について

管首相は、原発事故の補償はまず東電が責任をもって行うべし、と言ったそうな。
最初から全て税金で賄うスキームだと平時の安全対策にインセンティブが働かない。だから責任もってやれ、というのは分かる。
一方、民間企業としては収益を第一に考えざるを得ない。経営者に事故発生直後は復旧の可能性を放棄するのは難しかったろう。少なくとも、誰の目にも復旧は不可能でリスクが増大するばかりと分かる状況に至るまでは、安易な英断は後の責任問題に発展しかねない。
もっとも、最初から廃炉ありきで対応していたら現在よりましだったのかは知らない。

ヘリコプターで空中から注水するくらいしか思いつかない、実施はあさって明々後日あたりかな、と記者会見で述べたあたりで東電として使えるカードは全て切った。何をしたらいいのか、あの時点で東電にも分からなかったので誰に何の支援を求めればいいのかも分からなかったのだろう。その結果として危険で無様なヘリコプターからの撒水作戦に至ったのだ。
結局東電は、現時点では健康被害の可能性はない、という言葉を積みかさねて事態をここまで引っ張ってきたが、周辺への汚染はチェルノブイリ並みになることを避けようとはしなかった。たぶん聞けばチェルノブイリも安全ですと言うだろう。

原子力安全委員会は、もともと原子力は安全ですと説明するための組織なのだろう。その役割は今回の事故でも十分に果たして来た。記者会見では、放射能もれの周囲に与える危険性について聞かれてときも、毅然とした態度で「放射線は距離の二乗に反比例して減衰します!」と科学的に説明してみせた。
しかし事故収束のためには何もしなかったし、やろうとしても出来なかったのだろう。

政府は原子力の専門家ではない。だから政府がこの事故を収束させることなどできはしない。そして東電と原子力安全委員会に全てをゆだねた。彼らが報告する事実のみに満足し、常に「いますぐ大きな危険性があるとまでは言い切れない」という態度に終始し、未来を守る責任を放棄した。

政府は東電の当事者能力の限界を理解し、他のオプションを常に探すべきだった。
それは決して管首相にもできなかったことではないだろう。野党の反応を意識してのことだろうが、彼がこれまでの対応に疑問をもたず、反省もできないだろうことが残念でならない。


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