2013年1月5日土曜日

決疑論を超えて

道徳的に相反する究極の選択を設定して、どちらかの立場を選ばせる思考実験が流行りました。
しかしこのような極限状態での選択が、なぜ日常での選択よりも道徳的に重要なテーマでありうるのかは明らかにされていないように思います。
設定される問題も社会規範としては概ねどちらを選択しても仕方の無い、個人の信念の領域での問題でしかないようなものがほとんどではないでしょうか。
そのような状態での意思決定を日常的な判断に敷衍できると無前提に考えるのは間違っています。人はだれでも自分の命が大切です。しかしそれが他人をないがしろにする根拠になるはずが無いのです。逆に利他的行為への信念が自分の命を賭けることを強要するはずもありません。究極の選択というアプローチにどのような意味があるのか、一概に否定はできませんが都度考えなくてはならないことだと思います。
マイケル・サンデルの白熱授業は、だから何?と苛立たせることが多い、その印象の理由にふと気づきました。

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