自分の考え方を整理しておきたいので。
1.原発事故を消費社会からどこかへの転換点とする文明論には与しない。
2.原発への取り組みは根本的には発電会社が検討して選択すること。
3.発電会社の公共性の確保のためには市場の自由化が前提として必要。
4.原発の安全性評価について
(1)なんらかの原因による付帯設備の損壊と電源喪失を前提とする。
(2)考えられない最悪の事態において生じる危険性が、十分容認できるものであればOK。(発生率が1万年に1回でも人類が滅亡するなら不可。・・・多分。)
(3)受容可能な危険性は状況によって変わり得るので随時見直しが必要。安定的に持続する社会であれば、合理的なコストでリスクとハザードをより低くする努力目標が求められる。
(4)絶対安全はあり得ない。日常ある他のリスクと横並びで検討すること。(放射性物質による健康被害のリスクを感情的にとらえない。また代替エネルギー開発が原発より安全とは限らない。)
(5)人によって受け入れられるリスクは違う。しかしそれが公正さを損なわないように配慮する。
5.核燃料リサイクルの実用化について
(1)莫大な予算をつけているにもかかわらずほとんど成果を挙げていない。さらに研究体制を充実させるか、もう辞めるか、検討するべき。
(2)今回の事故への対応で、特に日本がこの分野に突出して優れているわけではないと実感した。日本だけでやろうとせず、海外の企業、研究機関と共同で取り組めないのか。
(3)日本の原発事業は核リサイクルの完成を前提にしているので、開発の失敗は発電企業の経営リスクになる。これを事業計画に織り込むこと。
私は昨年の原発事故を科学技術の限界点とは捉えていません。しかし政府と行政、科学者集団のあり方には根本的な疑問を感じています。
自分の考える安全基準では当面の再稼動は無理なのかなとも思いますが、心情としては実は再稼動容認派です。ただ前提として、起こりうる最悪の事態と、電力の便益とバーターするリスクを明らかにする必要があると思います。
原発停止を主張する人の中には、これによって企業の海外移転、日本人の海外移民が生じてもやむを得ないと言う人もいます。しかし放射能に汚染されてふるさとを追われるのも、失業して海外に移民するのも同じように悲劇的なことです。国民の生命財産を守ると言いながら、所得が低く財産が無い人を踏みにじることがあってはなりません。あまり極端な結果を選択しないようにしたいと考えます。
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