長野市にあるお寺で地獄絵の解説をしていただいたことがある。その中に、現世での供養が導きとなって死者を助けているというお話があり、これを父の法事のとき思い出した。
そこでお坊さんに今父は地獄の何丁目のいるのだろうか、と尋ねたのだが、父は地獄には行っておらず、阿弥陀様のお力で成仏できているとのことだった。
これが浄土真宗の考え方で、南無阿弥陀仏とお願いすれば全員もれなく浄土へのツアーに参加できる、真宗だけの特典だ。
そういえば母方の祖母は曹洞宗だったので、杖をもって修行の旅にでるという体裁だった。当時はあまり気にしなかったが、無事修行を終えられたのだろうか。
初七日、四十九日、百日と地獄ツアーの道のりを法要で照らしてあげたいと思っていたので、父は地獄には行っていないといわれて少々拍子抜けではあった。
地獄絵に描かれている様々な地獄には例えば着物をとられて裸で過ごすというものから、木の上の美女を求めて刃の幹を登ったり降りたりするというものまで、要するに生きている人間の欲望がダイレクトに本人を苦しめている様を描いている。そのメッセージはきわめてシンプルで、我それ自体が地獄、ということだ。だから地獄があるのか無いのか、と問われるなら、私があるならそれが地獄であるといえる。
しかし地獄とは本来死んでから行くものではなく、今生きているそのあり方そのものだとも付け加えたい。
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