人に見せたら評判よかったので調子にのってアップします。
furumichi戯言ログ
2018年4月21日土曜日
2018年3月13日火曜日
第四回立合狂言 京都
狐塚 狂言やるまい会(和泉流)
狐塚 善竹家 茂山千五郎家
水汲 野村万蔵家
お茶の水 大藏三兄弟
仁王 大蔵三兄弟 善竹家
附祝言 全員
昨年の写真撮影では皆さん控えめでしたが、今年は皆さんかぶりつきました。
各流派の違いを比べられ楽しいです。
今年は雷が落ちるところ、前回はニワトリだったような。
今回の演目ではお茶の水が好みでした。唄いがいいですね。
2017年9月25日月曜日
伏見、御香宮神社で神能
立て看板では600年の歴史云々と盛っているが、ここの能舞台は明治時代に山車の倉庫だったものを改修したものだそうだ。建物自体は豊臣秀吉にまでさかのぼるらしい。
演目は、最初に田村。次に休み無く狂言が始まり、これは二九十八。平成二十九年にかけたのと能楽堂の名前が九ナントカ、ということで選んだそうだ。
日も暮れて、ろうそく点火とセレモニー。つづいて舞がふたつ、井筒と善知鳥。ウトロと読むらしい。ウトロは猟師が死後地獄でウトロという鳥のお化けに苦しめられているのを供養してくれという話らしい。
ろうそくの明かりとスポットライトできれいでした。
最期の能が巻き絹でこれもよかった。
神社の境内に能舞台があるが、実際見るのは初めて。とても距離が近く、臨場感、迫力のある舞台で感動しました。
また簡単なマンガのあら筋紹介があったのも理解を助けてくれました。ありがとう。
ろうそく能と銘打っているが、ろうそくだけではまったく舞台が見えない、ということもよく分かりました。
同じ日、昭和記念公園で電灯、PAに頼らない薪だけの古式薪能があったのですが、どのような感じだったのか気になります。
演目は、最初に田村。次に休み無く狂言が始まり、これは二九十八。平成二十九年にかけたのと能楽堂の名前が九ナントカ、ということで選んだそうだ。
日も暮れて、ろうそく点火とセレモニー。つづいて舞がふたつ、井筒と善知鳥。ウトロと読むらしい。ウトロは猟師が死後地獄でウトロという鳥のお化けに苦しめられているのを供養してくれという話らしい。
ろうそくの明かりとスポットライトできれいでした。
最期の能が巻き絹でこれもよかった。
神社の境内に能舞台があるが、実際見るのは初めて。とても距離が近く、臨場感、迫力のある舞台で感動しました。
また簡単なマンガのあら筋紹介があったのも理解を助けてくれました。ありがとう。
ろうそく能と銘打っているが、ろうそくだけではまったく舞台が見えない、ということもよく分かりました。
同じ日、昭和記念公園で電灯、PAに頼らない薪だけの古式薪能があったのですが、どのような感じだったのか気になります。
2016年11月29日火曜日
熊林版かもめ
チエーホフのかもめは日本で上演されない年はない、必ずどこかで演じられる馴染みのある演目である。それだけに演出家にとっては名刺代わりのようなものであり、観客もお手並み拝見の期待を持って臨むものだ。
熊林版かもめは私が見たものの中でもっとも笑える、そしてエロティックなかもめだった。それはとても素晴らしく嬉しいことなのだが、前半の喜劇、後半のシリアスの対比を強調するためか全編通じての笑い、それはチェーホフの人生に対する皮肉が込められていると私は思うのだが、その骨格を分かりづらくしたのは少々残念だった。
コンスタンチンを終始よい子としたこと、見せ場のニーナのソロをメソッドアクター風のシリアス演出に留め、正気と狂気の行き交い、危うさ切なさという観客のカタルシスをたぶんあえて封じることで、かもめに内在する多数のドラマのいくつかを整理してみせた、その良し悪しは軽々には判断できない。
感じること、感じなかったこともいろいろあるが、満島ニーナは若草のような輝きとシングルマザーの灰色の人生の対比を鮮明にして、中島マーシャの喪服の似合う酔っぱらいぶりはなかなかの芸達者で安心してみられたし、他の役者さんも見事だったと思う。
いつかまたかもめを扱うときがあるなら、また違う解釈をみせてくれたらと期待する。
熊林版かもめは私が見たものの中でもっとも笑える、そしてエロティックなかもめだった。それはとても素晴らしく嬉しいことなのだが、前半の喜劇、後半のシリアスの対比を強調するためか全編通じての笑い、それはチェーホフの人生に対する皮肉が込められていると私は思うのだが、その骨格を分かりづらくしたのは少々残念だった。
コンスタンチンを終始よい子としたこと、見せ場のニーナのソロをメソッドアクター風のシリアス演出に留め、正気と狂気の行き交い、危うさ切なさという観客のカタルシスをたぶんあえて封じることで、かもめに内在する多数のドラマのいくつかを整理してみせた、その良し悪しは軽々には判断できない。
感じること、感じなかったこともいろいろあるが、満島ニーナは若草のような輝きとシングルマザーの灰色の人生の対比を鮮明にして、中島マーシャの喪服の似合う酔っぱらいぶりはなかなかの芸達者で安心してみられたし、他の役者さんも見事だったと思う。
いつかまたかもめを扱うときがあるなら、また違う解釈をみせてくれたらと期待する。
2016年10月26日水曜日
しぶししの囚われうなぎU子さんを頂きました。
2016年10月24日月曜日
1887年のゴッホの自画像
先日ゴッホとゴーギャン展に行きました。展示作品はあまり多くなく、疲れなくていい感じ。(物足りないとも言う。)
少ないなかでも1886年と1887年のゴッホの自画像を並べた展示が印象深い。
1887年はゴッホがゴーギャンと出会った年で、自画像からもゴッホの作風が一変し、私たちの知るゴッホが誕生した瞬間であると実感した。
ミレーに代表されるブランドル派の末席を汚したにすぎない二流の画家がある日ゴッホへと生まれ変わった訳を、ゴーギャンの影響に求めてよいのかは分からない。
お互いの絵はかなり違うので絵画論のようなものを交わしていたとしたらどんなやり取りだったのか、滑稽な場面を空想してしまう。
というわけで、今回ほど制作年に注目して鑑賞した美術展はなかった。といってもゴッホはその後数年でピストル自殺してしまうので制作期間は驚く程短い。チェーホフの「かもめ」を連想した。
1986年の自画像 |
1887年はゴッホがゴーギャンと出会った年で、自画像からもゴッホの作風が一変し、私たちの知るゴッホが誕生した瞬間であると実感した。
ミレーに代表されるブランドル派の末席を汚したにすぎない二流の画家がある日ゴッホへと生まれ変わった訳を、ゴーギャンの影響に求めてよいのかは分からない。
お互いの絵はかなり違うので絵画論のようなものを交わしていたとしたらどんなやり取りだったのか、滑稽な場面を空想してしまう。
というわけで、今回ほど制作年に注目して鑑賞した美術展はなかった。といってもゴッホはその後数年でピストル自殺してしまうので制作期間は驚く程短い。チェーホフの「かもめ」を連想した。
登録:
投稿 (Atom)