チエーホフのかもめは日本で上演されない年はない、必ずどこかで演じられる馴染みのある演目である。それだけに演出家にとっては名刺代わりのようなものであり、観客もお手並み拝見の期待を持って臨むものだ。
熊林版かもめは私が見たものの中でもっとも笑える、そしてエロティックなかもめだった。それはとても素晴らしく嬉しいことなのだが、前半の喜劇、後半のシリアスの対比を強調するためか全編通じての笑い、それはチェーホフの人生に対する皮肉が込められていると私は思うのだが、その骨格を分かりづらくしたのは少々残念だった。
コンスタンチンを終始よい子としたこと、見せ場のニーナのソロをメソッドアクター風のシリアス演出に留め、正気と狂気の行き交い、危うさ切なさという観客のカタルシスをたぶんあえて封じることで、かもめに内在する多数のドラマのいくつかを整理してみせた、その良し悪しは軽々には判断できない。
感じること、感じなかったこともいろいろあるが、満島ニーナは若草のような輝きとシングルマザーの灰色の人生の対比を鮮明にして、中島マーシャの喪服の似合う酔っぱらいぶりはなかなかの芸達者で安心してみられたし、他の役者さんも見事だったと思う。
いつかまたかもめを扱うときがあるなら、また違う解釈をみせてくれたらと期待する。